〔『正法眼蔵』本文〕
仏性の言をきゝて、学者おほく先尼外道センニゲドウの我ガのごとく邪計ジャケイせり。
それ、人にあはず、自己にあはず、師をみざるゆへなり。
いたづらに風火の動著ドウチャクする心意識を、仏性の覚知覚了とおもへり。
たれかいふし、仏性に覚知覚了ありと。
〔抄私訳〕
・また、先尼外道センニゲドウ(固定不変の実体我を認め、心は常住であり身は滅すると説く教え)の見をこれに引かれるのは、文の通りである。
・「風火の動著」〈神経細胞の作用〉とは、この依身エシン(依り所となる身体)は地水火風空の五種の構成要素で成っていることを指すのである。
いかにも、一般に仏性を説く意味合いを斥けられるのであり、
凡夫が理解する覚知覚了(妄想分別) を斥けられるのである。
しかし、仏性で覚知覚了を説くことは捨てるわけではない。だから、諸仏を覚者(覚った者)知者(仏智慧が開かれた者)と言うとあるのである。
・「覚知は、なんだちが云々の邪解を覚知とせず、風火の動静を覚知とするにあらず。ただ一両の仏面祖面」〈覚知は、お前たちが言う間違った理解を覚知とせず、神経細胞の作用を覚知とするのではない。ただ、無辺際の諸仏〉を、覚知と説くのである。本当に、まったく一般的な意味と違うのである。
〔聞書私訳〕
/「自己にあはず」とは、自己のありようを知らないということである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
仏性の語を聞いて、仏道を学ぶ多くの者は、先尼外道(固定不変の実体我を認め、心は常住であり身は滅すると説く教え)の神我(固定不変の実体我)のように間違って理解している。(仏性の言をきゝて、学者おほく先尼外道センニゲドウの我ガのごとく邪計ジャケイせり。)
それは何故かというと、正師に逢って正法を聞かず、自己が仏性であることを知らないからである。(それ、人にあはず、自己にあはず、師をみざるゆへなり。)
徒に神経細胞が作用する、つまり妄想分別するのを仏性の覚知覚了と思っている。(いたづらに風火の動著ドウチャクする心意識を、仏性の覚知覚了とおもへり。)
だが一体誰が、仏性に覚知覚了があると教えたのか。(たれかいふし、仏性に覚知覚了ありと。)
合掌
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