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正3-1-7『第三仏性』第一段その7〔仏性は、無始無終のものでもない。この何物〈仏性〉がこのように現前しているからである〕

〔『正法眼蔵』本文〕

無始有の有にあらず、是什麼物恁麼来ゼジュウモブツインモライのゆゑに。

始起有の有にあらず、平常心是道ビョウジョウシンゼドウのゆゑに。



〔聞書私訳〕

/「始起(始めて起こる存在)にあらず」と言い、「始起有の有にあらず」と言い、中のの字一つを加えたり減じたりするのは、区別する意があるのか。これは、「本有ホンヌウ」に対して説く時は、「始起有」と説き、「無始有」に対して説く時は、「始起有」と、の字を始起有の中に置かずに説くのである。特段の意図はない。文字を相対アイタイするだけである。


/「無始有の有にあらず、是什麼物恁麼来ゼジュウモブツインモライのゆゑに。」〈悉有は、無始有(始まりが無い存在)の有(存在)でもない。この何物〈仏性〉がこのように現前しているからである〉とは、何物を指して、この存在だと言えるところがないことを、「是什麽物」(この何物〈仏性〉)と言うのである。


/「無始有の有にあらず」とは、始めが無いことを無始と言う。衆生のことを言うのに、その始めが、極めて隔たっていて知り難く、終わりもまた、いつまでということがないことを無始無終と表す。これは、大体において考え方が小さく、極めて隔たっていることを知らない言葉と思われるので、ここでは「無始有の有にあらず」と斥けられるのである。


仏は始終に係わらないことであるから、無始無終と言う。衆生もまた仏と変わらないので、無始無終である。生仏一如ショウブツイチニョということがあり、生とは衆生のことである。例えば、衆生と仏と一如イチニョ(まったく等しくて変わりがない)と説く。これも無理して仏も衆生も同じとは言い難い。


衆生というのも、仏というのも、この「悉有は仏性なり」の意味で理解されるが、このような説について、教家においても、また、無始有終ということがある。始めは知らないことであるから無始と言うが、終わりは、どうして無いわけがあろうか、ということである。


この流転の衆生が、或いは善知識に従い、或いは経巻に従って、成仏得道したなら、すでに終わりがあるように見える。このことは、まったく世間の考えと同じである。しかし、まったく仏には始終がないから、この教説は用いることはできない。


/「吾常心是道ゴジョウシンゼドウ(吾が常の心、是れ道なり)。この「吾常」〈吾の平常どおりのさま〉は仏道である、疑うまでもない。我々の慮知念覚リョチネンカク(思慮分別)の心を仏道で用いてはならない。


〔『正法眼蔵』私訳〕

仏性は、無始無終のものでもない、この何物〈仏性〉がこのように現前しているから。(無始有の有にあらず、是什麼物恁麼来のゆゑに。)


仏性は、始めてできるというものでもない、変わりのない心が仏性であるから。(始起有の有にあらず、平常心是道のゆゑに。)

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