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正3-1-6『第三仏性』第一段その6〔仏性は、本来有るなどというものでもない、本末もなく初めも終りもない仏性であるから〕

 〔『正法眼蔵』本文〕

本有ホンヌの有にあらず、亘古亘今カンコカンコン《古に亘ワタり今に亘ワタる》のゆえに。

始起の有にあらず、不受一塵のゆえに。

条条の有にあらず、合取ガッシュのゆゑに。


〔抄私訳〕

・「條々の有」とは、あちこちにものがあるように思われるが、そうではない。「合取ガッシュ」も、物を取り合わせたように思われるが、そうではない。ただ仏性が仏性である道理を「合取」とも説くのである。

〔聞書私訳〕

/「亘古亘今カンコカンコン《古に亘ワタり今に亘ワタる》のゆゑに」と言う。


/古と今を言おうとするのでもない。ただ、これにも相当、彼にも相当する意である。「悉有」の道理と「衆生」の道理を当てるのである。


/「亘」の字を「わたる」と理解するけれども、あちらからこちらにわたるのではない。「悉有」を「衆生」とも、「仏性」とも、言われる道理を、「亘ワタル」と言うのである。もっとも、「悉有」と「衆生」と「仏性」は、異なるのでもなく同じでもない。「悉有」は「悉有」にわたり、「仏性」は「仏性」にわたるのである。


/結局、「亘古亘今」は、本末もなく、初めも終りもない意である。


/「不受一塵」(一塵を受けず)とは、客塵(外部から来る煩悩)がないという意である。


/「條々の有にあらず」とは、一つずつ、それぞれという有(存在)ではない意である。


/「合取ガッシュのゆゑに」とは、先に「悉有の言は衆生なり、即有なり、仏性なり」などと言ったから、「合取」(合わせ取る)とはあるが、結局はこれも一仏性と理解すべきである。


/「悉有の一分」を衆生と言い、悉有を衆生と言い、悉有を仏性と言うのは、これらを合取するように見えるけれど、世間の合とは異なり、他の物を合わせるのではないから、悉有を悉有に合わせ、衆生を衆生に合わせるほどのことである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

仏性は、本来有るなどというものでもない、本末もなく初めも終りもない仏性であるから。(本有ホンヌの有にあらず、亘古亘今カンコカンコンのゆゑに。)


仏性は、始めてできたというものでもない、一法が見えたら仏性でないから。(始起の有にあらず、不受一塵のゆえに。)


仏性は、一つ一つ離れたものでもない、全部合わさったものであるから。(条条の有にあらず、合取ガッシュのゆゑに。)

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