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正2-4『第二摩訶般若波羅蜜』第四段〔般若波羅蜜を受持し読誦することは、般若波羅蜜を守護することである〕 

 〔『正法眼蔵』原文〕                                                                     

天帝釈ンタイシャク、また仏に白モウして言さく、

「世尊、若し善男子ゼンナンシ善女人ゼンニョニン等、

此の所説の甚深ジンジン般若波羅蜜多ハンニャハラミタに於いて、

受持読誦ジュシドクジュし、如理思惟ニョリシユイし、他の為に演説せんに、

我れまさに如何イカンが守護すべき。

ただ願はくは世尊、哀アイを垂れ教えを示したまへ」。                                                                                                                                   

その時に具寿善現グジュゼンゲン、天帝釈に謂って言く、

「憍尸迦キョウシカ、汝、法の守護すべき有るを見るや不イナや」。                                                                                               

天帝釈言く、

「不イナなり、大徳、我れ法の是れ守護すべき有るを見ず」。                

善現言く、

「憍尸迦、若し善男子善女人等、是くの如くの説をなさば、

甚深般若波羅蜜多、即守護たるべし。                         

若し善男子善女人等、是くの如くの説をなさば、

甚深般若波羅蜜多、常に遠離オンリせず。  

まさに知るべし、一切人非人等、其の便りを伺求シグして、

損害を為さんと欲はんに、終に得ること能はじ。                

憍尸迦キョウシカ、若し守護せんと欲はば、所説の如くなすべし。     

甚深般若波羅蜜多と、諸菩薩とは異なること無し、欲守護虚空と為す」。        


しるべし、受持読誦ジュジドクジュ、如理思惟ニョリシユイ、すなはち守護般若なり。        

欲守護は、受持読誦等なり。


〔抄私訳〕                            

これもまた、大意は文の通りである。天帝釈が、「法の是れ守護すべき有るを見ず」(守護すべき法が有るとは思いません)というところが、甚深なる般若波羅蜜〈不生不滅の境界に渡す般若の智慧のはたらき〉である。また、「所説の如くなさば、甚深般若波羅蜜多、常に遠離オンリせず」(説くようにすれば、甚深なる般若波羅蜜多は、常に遠離しない)である。遠離しないとは、一般には、ここに般若を置き、それから離れないことであろうと理解するが、ここは、「守護すべき法が有ると思わない」所が、真実の「遠離しないこと」である。           


また、「一切の人非人等、其の便りを伺求シグして、損害を為さんと欲はんに、終に得ること能アタはじ」(一切の人間や人間以外のものたちが、その手がかりを尋ね求めて、損ソコない傷つけようとしても、全ては般若だから終になし得ない)とある。これも、一般には、このような「甚深なる般若波羅蜜」を受持し読誦する人を恐れて、損ない傷つけることは出来ないと理解するであろう。そのような理解もできないわけではないが、これでは、人と法〈ありよう〉が異なり、仏法ではない。


ただ全てが「般若」であるから、「人非人等」も、「伺求」も、「損害を為さんと欲はん」も、すべて「般若」である道理であり、「損害を為さんと欲はんに、終に得ること能はじ」と言われるのである。


「受持読誦」、「理の如く思惟」、「他の為に演説」など、皆それぞれが「般若」であると理解すべきである。だから、「般若波羅蜜多と諸菩薩とは異なること無し」とあるのである。                    


守護の道理を言うのに、「如何イカンが守護すべき」と言う。これは、禅宗門下の問答モンドウにのみ、「如何」と問う言葉に答えが含まれているということではない。仏が世に居られた頃より、「如何」の言葉は、問いと受け取られる所に答えが現れている。「守護」の様子が、「如何」と言われるのである。


これは、「是什麼物恁麼来ゼジュウモブツインモライ(何者がこのように来ているのか〈=お前と呼ばれるすべてのものが仏性であり、このように仏性が現成しているのだ〉)という〔六祖慧能禅師の弟子の南嶽に対する〕言葉が、これと同じである。


〔『正法眼蔵』私訳〕                        

帝釈天が、また仏に申し上げて言った、「世尊、もし仏法に帰依した男女の人々が、この説かれた甚深なる般若波羅蜜〈不生不滅の境界に渡す般若の智慧のはたらき〉を、受持し(受け保ち)、読誦し、その理の通りに思惟シイし、他の人々のために説こうとするとき、わたしは一体どのように守護すべきでしょうか。ただ願わくは世尊よ、哀れみを垂れ教えを示したまえ」と。(天帝釈ンタイシャク、また仏に白モウして言さく、「世尊、若し善男子ゼンナンシ善女人ゼンニョニン等、此の所説の甚深ジンジン般若波羅蜜多ハンニャハラミタに於いて、受持読誦ジュシドクジュし、如理思惟ニョリシユイし、他の為に演説せんに、我れまさに如何イカンが守護すべき。ただ願はくは世尊、哀アイを垂れ教えを示したまへ」。)                                 


その時に具寿善現が、仏に代わって天帝釈に言った、「憍尸迦キョウシカよ、汝は守護すべき法が有ると思うか、どうか」。(その時に具寿善現グジュゼンゲン、天帝釈に謂って言く、「憍尸迦、汝、法の守護すべき有るを見るや不イナや」。)                                                                                                                            

天帝釈が言った、「いいえ、大徳、わたしは守護すべき法が有るとは思いません」。(天帝釈言く、「不イナなり、大徳、我れ法の是れ守護すべき有るを見ず」。)                                         


善現が言った、「憍尸迦よ、若し仏法に帰依した男女の人々が、そのように言えば、甚深なる般若波羅蜜は、ただちに守護となる。(善現言く、「憍尸迦、若し善男子善女人等、是くの如くの説をなさば、甚深般若波羅蜜多、即守護たるべし。)              

             

もし仏法に帰依した男女の人々が、説くようにすれば、甚深なる般若波羅蜜は、常に遠離しない。(若し善男子善女人等、是くの如くの説をなさば、甚深般若波羅蜜多、常に遠離オンリせず。)         


まさに知るといい、一切の人間や人間以外のもの天竜八部衆や魔の類)たちが、その手がかりを尋ね求めて、損ソコない傷つけようとしても、全てが般若だから、終になし得ない。(まさに知るべし、一切人非人等、其の便りを伺求シグして、損害を為さんと欲はんに、終に得ること能はじ。)      


憍尸迦よ、もし守護しようとするならば、説くようになすべきである。(憍尸迦、若し守護せんと欲はば、所説の如くなすべし。)                                      


甚深なる般若波羅蜜と諸菩薩は、虚空を守護しようとすることにおいて異なることが無い。」と。(甚深般若波羅蜜多と、諸菩薩とは異なること無し、欲守護虚空と為す」。)            


知るといい、般若を受持し読誦し、理の通りに思惟することが、すなわち般若を守護することである。(しるべし、受持読誦ジュジドクジュ、如理思惟ニョリシユイ、すなはち守護般若なり。)             


守護しようとすることは、受持し読誦することなどである。(欲守護は、受持読誦等なり。)


*注:《 》内は御抄編者補足、〔 〕内は著者補足、( )内は辞書的注釈、〈 〉内は独自注釈。

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