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正2-3 『第二摩訶般若波羅蜜』第三段〔般若を学ぼうとするなら、虚空の如く学ぶべきである〕

 〔『正法眼蔵』原文〕                               

天帝釈テンタイシャク、具寿善現グジュゼンゲンに問うて言モウサく、「大徳ダイトク

もし菩薩摩訶薩ボサツマカサツ、甚深般若波羅蜜多を学せんと欲オモはば、

まさに如何イカンが学すべき)」。           

善現答へて言く、「憍尸迦キョウシカ、もし菩薩摩訶薩、甚深般若波羅蜜を学せんと欲はば、まさに虚空の如く学すべし」。           

しかあれば、「学般若ガクハンニャ」これ「虚空」なり、「虚空」は「学般若」なり。     


〔抄私訳〕        

これもまた文の通りであり、特別な事情は無い。但し、「当に虚空の如く学すべし、云々」とあるが、これは、一般に人は、空ソラが、虚ウツけ空ウツけとある所を「虚空」と名付け、その「虚空」(空間)を指すと理解するが、そうではない。ただこの「虚空」は、法体ホッタイ(法そのもの)を指す虚空と説くのである。或いは、「般若」を「虚空」と説くのであるから、「虚空は学般若なり」と言うのである。            《頭注:「具寿善現グジュゼンゲンは、須菩提尊者シュボダイソンジャのことである。憍尸迦キョウシカは、帝釈天タイシャクテンのことである。》                      

〔聞書私訳〕          

/学の言葉があるといっても、学ぶものと学ばれるものを設けないのが「学般若」である。


〔『正法眼蔵』私訳〕   

帝釈天タイシャクテンが、長老の具寿善現に問うて言った、「高徳の僧よ、もし菩薩が、甚深なる般若波羅蜜を学ぼうと思えば、まさにどのように学べばいいのでしょうか」と。(天帝釈、具寿善現に問うて言く、「大徳、もし菩薩摩訶薩、甚深般若波羅蜜多を学せんと欲はば、まさに如何が学すべき)」。)     


具寿善現が答えて言った、「憍尸迦よ、もし菩薩が、甚深なる般若波羅蜜を学ぼうとするなら、虚空の如く学ぶべきである」と。(善現答へて言く、「憍尸迦、もし菩薩摩訶薩、甚深般若波羅蜜を学せんと欲はば、まさに虚空の如く学すべし」。)                         


そうであるから、般若を学ぶことは虚空であり、虚空は般若を学ぶことである。(しかあれば、「学般若」これ「虚空」なり、「虚空」は「学般若」なり。)                


〔『正法眼蔵』評釈〕   

天空を見てみましょう。空空寂寂として果てしがなく、あらゆるものを受け入れています。山河大地も入れ、風雨も入れ、地震洪水も入れ、あらゆる生命体も入れ、人間も入れ、人間の構築物も入れていますね。


あらゆるものを受け入れていながら、少しも障りもなく、善し悪しもなく、損得もなく、過去も未来もなく、不平も言わず、心配もせず、風雨のまにまにただあります。しかもあらゆるものが、この中にあって自在を得ているのです。これが「虚空」のありようですね。


このような「虚空」の中で、平和な世にあっては平和な世の如くし、乱れた世に処しては乱れた世の如くし、貧にあっては貧の如くし、富にあっては富の如くし、生にあっては生の全力を尽くし、死にあっては間誤つかず死に、人のお役に立っても世話ぶりもせず、自己の真相が自覚されてもありがた顔もせず、このように滞るところも障ることもなく学ぶことを、「虚空の如く学ぶ」と言うのではないでしょうか。

                                 合掌
                               

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