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正2-2 『第二摩訶般若波羅蜜』第二段〔般若波羅蜜は雖無スイムであり、甚だ深い般若波羅蜜は微妙にして測り難い〕

 〔『正法眼蔵』本文〕                               

釈迦牟尼如来シャカムニニョライの会エチュウに一苾芻ビッスありヒソかに是の念をなす、

「我れ応に甚深般若波羅蜜多ジンジンハンニャハラミタを敬礼キョウライすべし。  

此の中に諸法の生滅無しと雖イエドも、而シカも戒蘊・定蘊ジョウウン・慧蘊・解脱蘊・解脱知見蘊の施設可得セセツカトク有り、             

また預流果ヨルカ・一来果イチライカ・不還果フゲンカ・阿羅漢果アラカンの施設可得セセツカトク有り、      

また独覚・菩提ドッカクボダイの施設可得有り、             

また無上正等菩提ムジョウショウトウボダイの施設可得有り、          

また仏法僧宝ブッポウソウボウの施設可得有り、             

また転妙法輪テンミョウホウリン・度有情類ドウジョウルイの施設可得有り」。     

仏、其の念を知シロシメして、苾芻ビッスに告げて言ノタマワく、「如是ニョゼ、如是。甚深ジンジン般若波羅蜜ハンニャハラミツは、微妙ミミョウなり、難測ナンシキなり」。    

而今ニコンの「一苾芻イチビッス」の「竊作是念セッサゼネン」は、「諸法」を「敬礼キョウライ」するところに、「雖無生滅スイムショウメツ」の般若、これ敬礼なり。  

この正当敬礼時ショウトウキョウライジ、ちなみに「施設可得」の般若現成せり。 

いはゆる、「戒定慧カイジョウエ」乃至ナイシ「度有情類ドウジョウルイ」等なり、これを無といふ。    

無の施設、かくの如く可得なり。                 

これ「甚深微妙難測」の般若波羅蜜なり。   


〔抄私訳〕                           

「釈迦牟尼如来シャカムニニョライの会エチュウに一苾芻ビッスありヒソかに是の念をなす、「我れ応に甚深般若波羅蜜多ジンジンハンニャハラミタを敬礼キョウライすべし。此の中に諸法の生滅無しと雖イエドも、而シカも戒蘊・定蘊ジョウウン・慧蘊・解脱蘊・解脱知見蘊の施設可得セセツカトク有り、」とある。


大意は、文の通り理解すべきである。但し、一般には、「一苾芻竊作是念イチビッスセッサゼネ」とは、「一比丘ビク(一人の僧)がひそかに是の念を作す」とあるから、比丘と念、また、敬礼の般若とは、それぞれ別の法と思われるが、そうではない。苾芻も、是の念も、敬礼も、みな般若であると説くのである。「雖無諸法生滅スイムショホウショウメツ」は、一般には一つの文章と思われるが、これは、雖スイも無も、諸法も生も滅も、みな般若と説くのである。そもそも、雖の言葉を般若と説くようなこの表現は、まったくはっきりとしないが、ただ般若を雖と説き、般若を無と説くのである。仏性の上で有無を説くのと違わないのである。


また、「施設可得セセツカトク〈施し設け得る〉とは、一々の法を一つ一つ挙げる言葉である。例えば、預流果ヨルカ(修行の初歩の位)の施設可得があり、一来果イチライカ(もう一度人間に生まれて涅槃に入る位)の施設可得があり、不還果フエゲンカ(再び生まれ変わることのない位)の施設可得があり、阿羅漢果アラカンカ(煩悩を断滅し修行を完成した位)の施設可得があるなどと言うのである。また、この僧の念を、如来はすでに「是くの如し、是くの如し」とお許しになられ、「甚深般若波羅蜜は微妙で測り難い」と讃嘆なさるのである。また、「施設」(施し設ける)も般若、「可得」(得ることができる)も般若である。

  

〔聞書私訳〕

/「雖無諸法生滅而有戒定慧」(諸法の生滅無しと雖も、而も戒定慧有り)とは、「修証は無きに非ず、染汚ゼンナすることを得じ」〈修行して証ることは無くはないが、修と証を別と見ることは修証を汚すことになるから、別と見てはならない〉の道理にあたる。生滅とは言わないけれども、戒律だ禅定だ智慧だと言えば、これこそ生滅の法と思われるが、そうではない。一切の仏の本源であり仏性の種子シュウジである「一戒光明金剛宝戒」と言うほどに戒を理解せよ。ただ戒と言えば、制し止めるとだけ理解し、悪を断じ善を修するとのみ理解してはならない。また、戒は彼岸に渡るための舟や筏という時は、生滅の法に似ているが、「雖無生滅スイムショウメツ」の道理は、今の「般若」と言うところが、「戒定慧等」であり、「敬礼」がこれである。   


/「施設可得シセツカトク」とは、これも施し設けて得ることができるということであれば生滅の法に似ているが、今は「施設」を「可得」と使うから、「戒定慧」と理解すべきである。            

/「戒定慧」以下、「度有情類」に至るまで、「施設可得」であるのである。        


/「預流果ヨルカ(修行の初歩の位)とは、須陀シュダオン果(一来果)である。/「一来果」(もう一度人間に生まれて涅槃に入る位)とは、斯陀含シダゴン(六種の煩悩を断じ終わった位)である。            

/「不還果フゲンカ(再び生まれ変わることのない位)とは、阿那含アナゴン(煩悩を断じ尽くした位)である。           

/「阿羅漢」(煩悩を断滅し修行を完成した者)を、そのまま応供オウグ(供養を受けるに相応しい者)と称するのである。    


〔『正法眼蔵』私訳〕     

〔この段では、「雖無の般若」、これさえわかればいい。これは、『第一現成公案』の巻の「見成これ何必なり」《見成何ぞ必ずしも何々ならん》〈見えるものは、何々だと特定できるものではない〉の例で、有と言うべからず無と言うべからずとあるが、般若波羅蜜は何としても「雖無」と言うべきである。だから、この僧は般若を合点して「雖無」という念を起こした。そこを仏は甚深般若波羅蜜と、直きに「雖無」の本体を現わして証明されるのである。ここが要処である。〕                        


釈迦牟尼仏の会下エカ(一師に随って教えを学ぶ集り)に一人の僧がいて、ひそかにこの念を起した、「我れは今まさに甚深なる般若波羅蜜〈仏智慧のはたらき〉を敬礼キョウライ(敬って礼拝すること)すべきである。(釈迦牟尼如来シャカムニニョライの会エチュウに一苾芻ビッスありヒソかに是の念をなす、「我れ応に甚深般若波羅蜜多ジンジンハンニャハラミタを敬礼キョウライすべし。)                                           


この般若の中において諸法の生滅は無いけれども、しかも、戒(戒をたもち)、定(禅定に親しみ)、慧(智慧が開き)、解脱(煩悩から開放されて)、解脱知見(心の安らかさを自覚する)の施設可得〈施し設け得ること〉があり、(此の中に諸法の生滅無しと雖イエドも、而シカも戒蘊・定蘊ジョウウン・慧蘊・解脱蘊・解脱知見蘊の施設可得セセツカトク有り、)                                      


また、この般若の中において修行していけば、預流果(修行の初歩の位)・一来果(もう一度人間に生まれて涅槃に入る位)・不還果(再び生まれ変わることのない位)・阿羅漢果(煩悩を断滅し修行を完成した位)の施設可得があり、(また預流果ヨルカ・一来果イチライカ・不還果フゲンカ・阿羅漢果アラカンの施設可得セセツカトク有り、)       


また、独覚菩提(師無く独りで悟る者)の施設可得があり、(また独覚・菩提ドッカク・ボダイの施設可得有り、)                            


また、無上正等正覚(この上ないすぐれた悟り)の施設可得があり、(また無上正等菩提ムジョウショウトウボダイの施設可得有り、)                                                  


また、仏法僧ブッポウソウの三宝サンボウの施設可得があり、(また仏法僧宝ブッポウソウボウの施設可得有り、)   


また、仏の説法や衆生救済の施設可得がある。」と。(また転妙法輪テンミョウホウリン・度有情類ドウジョウルイの施設可得有り」。)      

             

仏は、その僧の念をお知りになられて、その僧に告げて言われるには、「おお、その通りだ、その通りだ。般若波羅蜜は雖無であり、甚だ深い般若波羅蜜は微妙にして測り難い。言語思量の及ぶところではないが、雖無の般若を汝はよくも合点したな。」とその僧を讃嘆されるのである。(仏、其の念を知シロシメして、苾芻ビッスに告げて言ノタマワく、「如是ニョゼ、如是。甚深ジンジン般若波羅蜜ハンニャハラミツは、微妙ミミョウなり、難測ナンシキなり」。)                                                     


今この僧がひそかに起こした念は、「諸法」〈森羅万象〉を「敬礼」する(敬い礼拝する)ところに、「雖無生滅」(生滅は無いけれども)の般若が現成した、これが敬礼である。(而今ニコンの「一苾芻イチビッス」の「竊作是念セッサゼネン」は、「諸法」を(「敬礼キョウライ」するところに、「雖無生滅スイムショウメツ」の般若、これ敬礼なり。)  


この僧が敬礼した正にその時、様々な「施設可得」の般若が現成した。(この正当敬礼時ショウトウキョウライジ、ちなみに「施設可得」の般若現成せり。)                   


いわゆる「戒律・禅定・智慧」から「衆生救済」等までであり、これを無と言う。(いはゆる、「戒定慧カイジョウエ」乃至ナイシ「度有情類ドウジョウルイ」等なり、これを無といふ。)                


無を施し設けることは、このように可能である。(無の施設、かくの如く可得なり。)    


これが、「甚だ深く微妙で測り難い」般若波羅蜜である。(これ「甚深微妙難測」の般若波羅蜜なり。)


                                 合掌
                               

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正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

総裁選挙期間中『正法眼蔵』ブログの配信を休みます。かわりに、

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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...