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正1-14『第一現成公案』第十四段 〔一法を得たら一法に通ずればいい、一行に遇えば一行を修めればいい〕 

〔『正法眼蔵』本文〕                           

うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。                  

しかれあれども、うをとり、いまだむかしより水そらをはなれず。只タダ用大ヨウダイのときは使大なり。要小のときは使小なり。   

かくのごとくして、頭々ズズに辺際ヘンザイをつくさずといふ事なく、処々に踏飜トウホンせずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづればたちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す。   

以水為命イスイイメイしりぬべし、以空為命しりぬべし。以鳥為命あり、以魚為命あり。    

以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。このほかさらに進歩あるべし。         

修証あり、その寿者命者ジュシャミョウシャあること、かくのごとし。   

しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかむと擬ギする鳥魚あらむは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。               

このところをうれば、この行李アンリしたがひて現成公案す。   

このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。     

このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑにかくのごとくあるなり。             

しかあるがごとく、人もし仏道を修証シュショウするに、得一法トクイッポウ通一法なり、遇一行グウイチギョウ修一行なり。            

これにところあり、みち通達ツウダツせるによりて、しらるゝきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽グウジンと同生ドウショウし、同参するゆゑにしかあるなり。        

得処トクショかならず自己の知見となりて、慮知リョチにしられむずるとならふことなかれ。    

証究ショウキュウすみやかに現成すといへども、密有ミツウかならずしも現成にあらず、      

見成ケンジョウこれ何必カヒツ《何ぞ必ずしも何々ならん》なり。    



〔抄私訳〕                               

この段はまた、水と魚、空と鳥の喩えである。つまるところ、魚と水、鳥と空は、それぞれ別のように思われるけれども、鳥が空を離れれば死に、魚が水を離れれば死ぬことは、明らかなことである。魚は「以水為命」(水を命とする)、鳥は「以空為命」(空を命とする)という道理の方より見れば、「以鳥為命」(空は鳥を命とする)「以魚為命」(水は魚を命とする)「以命為鳥」(空は命を鳥とする)「以命為魚」(水は命を魚とする)の道理であることを知った。世間の法でさえこのようである。人と仏法の関係を説かれる時は、「得一法通一法(一法を得れば、一法に通しればいい)、遇一行修一行(一行に遇えば、一行を修めればいい)である。      


仏法は思慮分別によって知られると習ってはならない。「知らるる際の知るからざるは、この知ることの仏法の究尽と同生し、同参するゆゑにしかあるなり」〈知られる際が知られないのは、その知ることが、仏法の究尽と共に生き共に行ずるから、知られないのである〉である。


だから、「得処必ずしも自己の知見となりて、慮知に知られんずると習う事なかれ。証究すみやかに現成すといへども、密有必ずしも現成にあらず」修行すれば必ず悟りはあるが、悟りを得たという時は、悟りというものは微塵もない〈密有〉、その表れたものは何ぞと抑えてみれば、何必(何ぞ必ずしも何々ならん)で、これというものはないと説かれるのである。「密有」とは、一つ一つの法が本来具有している理である。人が決して造り出すことができるものではないから、「密有は必ずしも現成にあらず」と言うのである。《「証究」とは、「得一法通一法」が究め尽している理である。》     


「何必」(何ぞ必ずしも何々ならんや)とは、例えば、「諸法の仏法なる時節」に、「迷あり悟あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり」というほどの道理であり、また、「説似一物即不中」(一物を説似せんとするも即ちあたらず)の道理である。一法にも関わらない道理である。                      


〔聞書私訳〕                           

/「進歩あるべし、修証あり」などと言う。鳥は、空を足とも羽とも使うことができるのであるから、鳥の命の可能性を限ってはならない。 


/「進歩あるべし、修証あり、その寿者命者あることかくのごとし」〈進歩があり、修証があり、その寿命があるとは、このようなことである。〉と言う。                     

進歩・修証とは、身とも心とも言うことができる道理を言う。水や空や寿命ばかりに限らないのである。進歩・修証は、身の外側に空・水を置いてはならない道理を明らかにすることを進歩・修証と言う。〔魚鳥水空などと〕様々に現れる所を、進歩とも修証とも言う。この様々は寿命に限らず、意とも身とも言うことができる、「この外更に進歩あるべし」と言うのであるから。


/「寿者命者」のことは、小乗仏教で説くところである。今は、進歩・修証に限らず、様々あることを言うのである。           


/「人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり」(人がもし仏道を修証するならば、一法を得れば一法に通じるといい、一行に遇えば一行を修めるといい)と言い、このことを表そうとする為に、魚鳥水空の言葉もある。


「得一法通一法」とは、得坐禅通作仏(坐禅すれば成仏に通ず)と言おうとするようなものである。人が坐禅する時、この功徳がどのようなものであるか知らない、そうであるけれどもこれは坐禅である。坐禅であるから作仏(成仏)であるから、「得処必ず自己の知見となりて、慮知に知られんずると習ふ事なかれ」〈修行によって得た処が必ず自己の知るところとなって、思慮分別に知られるだろうと習ってはならない)と言うのである。


また、「道通達せるによりて、知らるる際の知るからざるは」〈そこに道が通じることによって、知られる際が知られないのは〉とも言うのである。この「しらるるきはのしるからざる」などという意は、「法の辺際を離」れないときには、法が一体であるはたらきはあるはずがなく、「法もし充足すれば、一方はくらし」と言うのは、この意である。    


/「このしることの」という知は、思慮分別の知ではなく、坐禅は坐仏であると知られるほどの「知」である。           


/「何必」と受けて、何れともとも定めないところを「何必」と言うのである。     


/この「密有」は、「一切衆生、悉有は仏性なり」の有である。 


/「何必」を受けると言っても、「何必」がそのまま仏法である道理である。      

くれぐれも仏法を理解する仕方は、よくよく考えて判断すべきである。善悪不二・邪正一如とも、事理無二(相対的な様々な現象と唯一絶対の真理は二つではない)・相体一如(ものの姿とそのもの自体は一つである)などと言うのを聞いて、ただ何もかも同じことだという連中がいる。


また、「三界は安きこと無し、猶火宅の如し」この世は苦しみが多く、あたかも火に包まれた家にいるように、しばしも心が安まらないと言って、この世を厭えと教えることもあり、「三界唯一心・心外無別法」(三界はすべて一心である・心の外に別の法はない)という時もあり、「毘盧遮那仏ビルシャナブツ(宇宙の根源の仏)の身体と国土」という時もあり、「寂光浄土(仏が住む世界)の外に別に娑婆シャバ(俗世界)があるのではない」とも説く。


これらを皆自分の見解の方へことさらに引こうとしたり、或いは、「仏は一つの音声で法を説くが、衆生はその類に随ってそれぞれ理解する」と経文にあると、衆生の見方はその類に随うものだなどと言う。だから、どのようであっても衆生の心なのだと思う連中がいる。


このことは、仏が在世の時は、人の機をご存知で衆生の機に随って説法されたけれども、弾呵タンカ(方等時)淘汰チョウタ(般若時)の調熟の段階を経て、機を法華時の純一なる円教(『法華経』の一仏乗)に調えなさったのである。


今の「足」・「不足」という言葉もとりわけ分別すべきである。「一方を証すれば、一方はくらし」という意味合いがある。「不足」とは「充足」と理解するのである。「何必カヒツ」という言葉も「見成ケンジョウこれ何必なり」〈その表れたものは、何々だと特定できるものではないのである〉とあるのは、有と説き、無と説くことは、皆「何必」(何ぞ必ずしも何々ならん)なのである。必ずいかなるものを「何必」と言うのだと理解してはならないのである。      

   


『正法眼蔵』私訳〕                              

魚が水を行くとき、どこまで行っても水の限りはなく、鳥が空を飛ぶとき、飛ぶといっても空の限りはない〔、人が「今ここ」を行じるとき、どこまで行じても「今ここ」の限りはない〕。(うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。)                   


しかし、魚・鳥〔・人〕は昔から水・空〔・「今ここ」〕を離れることがない。(しかれあれども、うをとり、いまだむかしより水そらをはなれず。)  


ただ、大きく用いる時は大きく使い、小さく必要な時は小さく使うのである。(只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。)   


このようにして、個々に空・水〔・「今ここ」〕の辺際を尽くさないということはなく、あちこちで飛び跳ねるということがないといっても、鳥がもし空を出ればたちまち死に、魚がもし水を出ればたちまち死ぬ〔、人がもし「今ここ」を出ればたちまち死ぬ〕。(かくのごとくして、頭々に辺際をつくさずといふ事なく、処々に踏飜せずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづればたちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す。)                


魚が水を命とすることを知るべきであり、鳥が空を命とすることを知るべきである〔、人が「今ここ」を命とすることを知るべきである〕。(以水為命しりぬべし、以空為命しりぬべし。)


空が鳥を命とすることがあり、水が魚を命とすることがある〔、「今ここ」が人を命とすることがある〕。(以鳥為命あり、以魚為命あり。) 


空が命を鳥とする、水が命を魚とする〔、「今ここ」が命を人とする〕。(以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。)


更に進歩し悟りを得ることがある。(このほかさらに進歩あるべし。)


修行し悟りを得て、仏の寿命を継ぐことがあるとは、このようなことである。(修証あり、その寿者命者あること、かくのごとし。)                


そうであるのに、水の極限を知ってから、空の極限を知ってから、水・空を行こうとする魚・鳥があれば、〔「今ここ」の極限を知ってから、「今ここ」を行じようとする人がいれば、〕水にも空にもどこにも道を得ることはできず、処を得ることはできない。(しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかむと擬ギする鳥魚あらむは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。)          


この宝処を得れば、この「今ここ」の行が従って現成する。(このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。)   


この仏道を得れば、「今ここ」の行が従って現成する。(このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。)           


この仏道や、この宝処は、大小でもなく、自他でもなく、過去現在でもないから、「今ここ」としてあるのである。(このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑにかくのごとくあるなり。)


このような道理であるから、人がもし仏道を修証するときは、一法を得たら一法に通ずればいい、一行に遇えば一行を修めればいいのである。(しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり。)   


一法一行を行じ尽くすところに、万法万行に通じる道が開けている。(これにところあり、みち通達せるによりて、)


今行う一行が万行を具することは知られないけれども、この知っている修一行が修万行のところに、必ず万行が同生し同参しているから、知られないからといっても何も不都合はない。(しらるゝきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽グウジンと同生ドウショウし、同参するゆゑにしかあるなり。)           


遇一行修一行によってなるほどここかという手応えがある。それが自己の知見にうつるところとなって、悟りとはこんなものかと分別できると思ってはいけない。(得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられむずるとならふことなかれ。)  


修行すれば必ず悟りはあるが、悟りを得たという時は、悟りというものは微塵も
ない、その表れたものは何だと抑えてみれば、何必(何ぞ必ずしも何々ならん)で、これというものはない。(証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、見成これ何必《何ぞ必ずしも何々ならん》なり。)

注:《 》内は御抄編者の補足。〔 〕内は著者の補足。( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。
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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...