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正1-7『第一現成公案』第七段〔色(物)を見る時は全身心が色になり、声を聴く時は全身心が声になり、親しく大悟徹底する〕 

〔『正法眼蔵』本文〕                                 

身心シンジンを挙して色シキを見取ケンシュし、身心を挙して声ショウを聴取チョウシュするに、                              したしく会取エシュすれども、                      

かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月のごとくにあらず。    

一方を証するときは、一方はくらし。                


〔抄私訳〕                                    

「身心を挙して色を見取し」〈全身心をあげて色(物)を見る〉とある身心は、「諸法の仏法なる時節」〈今向かうとこのようにある時節:現成公案〉の上での身心である。この身心をそのまま色(物)と説き、この身心を声と説くのであるから、「親しく会取す」(親しく事理を了解する)と言うのである。


身心と色、身心と声は、相対アイタイする二つのものではない。二つのものが相対すれば、「親しく会取する」ことはない。だから、鏡が物の影を映し、月が水に映るのとは異なる。身心と説く時は身心以外に何もなく、色或いは声と説く時は、色声以外に何もないところを、「一方を証する時は、一方はくらし」と言うのである。鏡と物の影、水と月はどうしても二つのものが相対しなければ映らないのであるが、こういうのは仏法ではない。        


〔聞書私訳〕                             

/ただ月は月に映り、鏡は鏡を映すと言ってしまうことができるであろう。だから、「一方を証する時は一方はくらし」と言うのである。       


/『法華経』に、「もし法を聞く者が有れば、成仏しない者は一人も無い」とあるのも、今の意と少しも違わない。『法華経』の意味するところは、仏は衆生を隔てないから、「成仏しない者は一人も無い」ことも論ずるまでもないということである。「聴取」というのも「もし法を聞く者が有れば」というのと同じくらいのことである。        



〔『正法眼蔵』私訳〕                              

(物)を見る時は全身心が色になり、声を聴く時は全身心が声になり、身心と対境が一つとなるので、(身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、)                                


親しく大悟徹底するけれども、(したしく会取すれども、)   


鏡に物の影を映すようではなく、水に月が映るようではなく、能所相対の会得ではない(かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月のごとくにあらず。)

                 

一方を明らかにする時はもう一方は暗く、水をいう時は水だけであり、月をいう時は月だけである、一法の究尽である。(一方を証するときは、一方はくらし。)


〔霊雲レイウンは、桃の花を見た時、天地一ぱいの桃の花と一体となって大悟徹底した。香厳キョウゲンは、小石が竹に当たってカチーンと響いた時、天地一ぱいのカチーンと一体となって大悟徹底した。〕                                   

注:( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。〔 〕内は著者の補足。

                                 合掌
                               

                                 

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