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正1-4『第一現成公案』第四段〔今現前するものとこの身心は一体であり、迷と悟は同じである〕 

〔『正法眼蔵』本文〕                     

自己をはこびて万法マンボウを修証シュショウするを迷とす、

万法すすみて自己を修証するはさとりなり。                     


〔抄私訳〕                         

「自己を運びて」という自己は、第一段の「諸法の仏法なる時節」〈森羅万象が仏法である時節:今ここがこのようにある時節の「自己」である。仏を運んでというのと同じことである。「運ぶ」とは、尽十方界のすべてが自己である道理を「運ぶ」と言うのである。自己が遍く世界に行き渡っている(周遍法界シュウヘンホッカイという道理をしばらく「運ぶ」と言うのである。

また、衆生と自己は同じだと言うべきであるが、ただしばらくこの自己は、諸法が仏法である上での一個の自己と理解すべきである。「自己」と「万法」と「迷」とは、ただ同じなのである。修証(修行・証悟)の様子も、普通に理解している修証ではない。結局、自己の道理〈今この身心と万法が触れ合うと一体となってこのように現前するという道理〉を修証とも名づけるのである。一般には、自己を立てて万法を修証するのは迷いであり、万法の方から進んで自己を修証するのを悟りとする、と理解すると思われるが、そうではない。このように言えば、自己と万法、迷と悟が、それぞれ別になってしまう。全くそうではない、それでは法の道理に背く。

しかしまた、普通に理解する時も、自己を立てて万法を修証することはきっとそうであろう。「万法すすみて自己を修証す」という言葉も、尋常のことではないのである。方々、諸法が仏法である〈今ここがこのようにある〉上での道理として理解すべきである。「自己を運びて万法を修証す」とは、自己の方から自己を修証するということであり、「万法すすみて自己を修証す」とは、万法の方から自己を修証するということである。     

〔聞書私訳〕                                 

/「迷とす」「悟とす」というのも、悟の時は、全てが悟であり、迷の時は、全てが迷であり、迷悟の両方が相対して同時にあると理解してはならない。悟に対して迷を置かず、迷に対して悟を置かないのである。   


/「自己」と「万法」と、「運ぶ」と「進む」と、「迷」と「悟」とを説くならば、                                                    

雪峰セッポウは、「三世諸仏が火焔裏カエンリに在って、大法輪を転じる」《火焔の中という道場と、大法輪を転じるという説法は同じである》と仰オッシャられている。                                 

玄砂 ゲンシャは、「火焔が三世諸仏の為に説法し、三世諸仏は地に立って聴く」《聴くものである三世諸仏と聴かれるものである火焔の説法は同じである》と仰られている。                         

圓悟エンゴは、猿の白黒、神鬼の出没を互換して、「烈しい火焔が天に亘ワタり、仏が法を説き、天に亘る烈しい火焔は、法が仏を説くのである」と交互にあげて、仏と法は同じであることを表現している。この「自己」と「万法」と、「迷」と「悟」は同じであるということをよく理解しなければならない。         


〔『正法眼蔵』私訳〕                             

自分を立て今現前するものと一体になりきろうとするのをしばらく迷と呼び、 (自己をはこびて万法マンボウを修証シュショウするを迷とす、) 

今現前するものに触れてこの身心が作用・活動することを明らかにするのしばらく悟と呼ぶが、今現前するものとこの身心は一体であり、迷と悟は同じである。(万法すすみて自己を修証するはさとりなり。)  

注:( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。《 》内は聞書抄著者補足〔 〕内は著者補足

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