〔『正法眼蔵』本文〕
仏道もとより豊倹ホウケンより跳出チョウシュツせるゆへに、生滅あり、迷悟あり、生仏ショウブツあり。
しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜アイセキにちり、草は棄嫌キケンにおふるのみなり。
〔抄私訳〕
この段は特別な事情は無い。ここではまた、「生滅有り、迷悟有り」と説かれる。この「有り」は、「諸法の仏法なる時節」〈今向かうとこのようにある時節:如是の法〉の上で言う生滅、迷悟、生(衆生)仏なので、「有り、有り」と説かれる趣旨はもっともなことである。「愛惜」の言葉は、惜しむという言葉であり、「棄嫌」の言葉は、嫌うという言葉である。後進の仏道修行者の心構えが書かれていると理解すべきである。第一段の「有」を、ただ迷から衆生までの「有」と理解し、第二段の「無」も、諸仏の「無」、衆生の「無」と理解するのも相違しない。
〔聞書私訳〕
/迷・悟を善・悪それぞれの極みと我々は思いがちであるが、仏法で言う時は、「豊・倹」(豊か・貧しい)を超越して、生・滅、迷・悟、生・仏という相対的な言葉も使うのである。しかし、これらの相対的な言葉もただ好き(愛惜)か嫌い(棄嫌)かによるだけだと、明らかにされるのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
今向かうとこのようにある〈如是ニョゼの法〉という生き方〈仏道〉は、元来、豊・倹(豊か・倹ツヅマやか)や有・無などの相対概念(他の概念と相関してはじめて存在しうるような概念)から跳び出しているからこそ、この体内で毎秒数百万個の細胞の新陳代謝があり、無数にある思いの一つでしかない自分という思いに振り回されながら無我に目覚めることがあり、人間的自分という思い込みに振り回されながら無我に目覚める人がいる。(仏道もとより豊倹ホウケンより跳出チョウシュツせるゆへに、生滅あり、迷悟あり、生仏ショウブツあり。)
しかもこのようであるけれども、花〈生、悟、諸仏〉は惜オしまれながら散り、草〈滅、迷、衆生〉は嫌キラわれながら生ハえるばかりである。豊・倹、有・無、生・滅、迷・悟、衆生・諸仏などの相対概念は、ただ人間の好き嫌いの思いの上にあるだけであるから、実体のない好き嫌いの思いを離れて見れば、みなただコロッと今このようにあるだけである:現成公案。(しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜アイセキにちり、草は棄嫌キケンにおふるのみなり。)
〔『正法眼蔵』評釈〕
「花が散る」のは、いつまでも咲いていて欲しいという人間の愛惜アイセキ(好き)、そこで散るのです。「草が生える」のは、エエまた生えたかうるさい、という人間の棄嫌キケン(嫌い)の感情、そこで生えるのですね。人間は草は嫌いだと言いますが、農夫は草は肥料になるからたくさん生えれば良いと言います。桜の花が咲くと人間は花見に集まりますが、毎日樹の下に臥せている犬は何とも思いません。いや、酔客が食べ残した弁当を漁るぐらいのことはするでしょうが。虫は草を世界としていて、草が茂ると新しい座敷ができて気持が良いと思っているのかも知れませんね。
しばらく、相対する概念から見れば、草は迷い、花は悟りであり、草を衆生とすれば花は仏と言えるでしょう。人間は妄を嫌って真を好みます。煩悩は嫌なもの、涅槃は結構なものだと思うのですね。生・滅、迷・悟、衆生・仏などのあらゆる相対概念は、ただ人間の好き嫌いの思いの上にあるだけです。実体がない好き嫌いの思いを相手にしなければ、一切はみな一つ一ただコロッとこのようにあるだけです〈如是ニョゼの法〉。他と比較しなければ勝劣はなく、何の問題もないのです。現前するものとこの身心と一つとなりコロッとこの通りただある。あらゆるものはこのように縁に触れて刹那刹那に現成し生滅し、無限に変化し続けていくだけではないでしょうか。
注:《 》内は御抄編者の補足。( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。〔 〕内は著者の補足。
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