〔『正法眼蔵』本文〕
万法マンボウともにわれにあらざる時節、
まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
〔抄私訳〕 この「われ」は万法の「われ」〈あらゆるものと一体であり無我である自己〉であり、吾我〈実在していないが、観念の中で在ると錯覚される自分〉の「観念のわれ」ではない。〔観念とは、人間が意識の対象について持つ、主観的な像である。心理学的には、具体的なものがなくても、それについて心に残る印象でしかない。〕この「無」の語は、有無が相対する「無」ではない。仏性の上において有無を論じるのは、或いは、「即心是仏ソクシンゼブツ」(この心がそのまま仏である)の上での「非心非仏」(即心是仏の言葉に執着した者に、心にあらず仏にあらずと説いたが、両方同じ道理)であり、会エ(分かる)の上での不会フエ(分からない)、見仏(仏を見る)の上での不見仏(仏を見ない)というほどのことである。もっとも、これも万法が究尽している時は、諸仏〈無我に目覚めている人〉と衆生〈思いの中にしかない自分に振り回わされている人〉とを分ける境目もないから、これを「無し」と言っても支障はないのである。
〔聞書私訳〕 /第一段の「有り、有り」を「無し、無し」に替えて、「諸法の仏法なる時節、即ち迷無く悟無く、諸仏無く衆生無く、生無く滅無し」とも説くことができるのである。しかし、仏法で「無明(真理に暗いこと)即(すなわち)法性(法の本質)、法性即無明」などと説いているからといって、善も悪もただ同じことだという間違った考えの連中がいる。このような考えには、十分に注意しなければならない。
/例えば、世間に火があり、この火が民家を焼き払い、人畜をも焼き殺し、また堂塔、仏像、経典をも焼くことがあるが、またその後に堂塔を造るときも、仏像を作るときも、火を用い離れることはない。旨として仏には燈明を挙げ焼香を用いる。そうであるけれども、火が及ぼす善悪は天と地ほどの違いがある。このように、目の前のものについても明らかに見ることができる。今の迷悟は仏法上のことである。善悪も迷悟もただ同じことだと言ってはならない。この火の喩えにおいても明らかである。
/この第二段は前後に連ねて、前の第一段と同じことを再び説いているのである。「諸法の仏法なる時節」〈今ここがこのようにある時節〉こそ、この段の「万法のともに我にあらざる時節」〈あらゆるものにも私にも不変の実体がない時節〉である。前の段で、迷悟・修行・生死・諸仏衆生「有り」と言ったが、どれも世間で言う「有り」ではない。万法(あらゆるもの)が仏法であるようなときは、迷悟、仏衆生、生滅と言うことはない。今、「無し、無し」と言うのも、前の段でただ「有り、有り」と言うのと同じである。有無の字を世間のように使ってはならない。仏法でない時に、迷と言うことができるであろうか。仏法なる時節にのみ、迷と言うことができるのである。迷だけがあるような時は、誰が迷という名をつけることができようか。
『法華経』の『方便品ホウベンボン』(衆生救済のための便宜上の手段の章)という名は理解し難い。実相(真実のすがた)を説く章であるから実相品とも言うべきか、あるいは方便実相品とも言うことができる。そうであるのに、『法華経』以前に説かれた経を『方便品』と言うのである。〔この一文は御抄の原文が不鮮明のようです。以前の経と今の経で方便の意味が異なることを言う。〕
或いは、二乗(声聞乗と縁覚乗)の教えも、自分自身は方便であると知らないし、方便であると言わない。今の法華の時に、二乗の人がその教えが方便であると知った時に、方便であると説くところに、そのまま実相(真実のすがた)は現れるのである。実相が現れるとき方便の言葉が出て来るように、「迷」とは「仏法なる時節」に言われるものだと知るべきである。
「迷」というのも、「悟」というのも、日頃の我々のものの見方と同じはないから、並べて「迷悟有り」と説くのである。悟も迷に対して理解した時の悟ではないのである。「仏」も「衆生」もまた同じであり、「尽十方界真実人体」(十方のあらゆる世界はそのまま仏の姿であり、仏性の顕現である)の衆生である。仏と説くときは、衆生を残すことはない。悟と説くときは、迷が残ることはないと言う。これも、一重ヒトエ(それ一枚だけで他と重ならないこと)の道理である。親切に言うときは、ただ「迷悟」二つ並べて言っても支障がないことを、「仏法なる時節」と言うのである。
*注:《 》内は御抄著者の補足。( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。〔 〕内は著者の補足。
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