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この愚しさしさは、眼の前の五感の対象に迷わされているからである『第十六行持下』16下-5-1

 〔『正法眼蔵』原文〕                                 

われらが卑賤おもひやれば、驚怖しつべし。


中土チュウドをみず、中華にむまれず、聖ショウをしらず、賢をみず。


天上にのぼれる人いまだなし、人心ひとへにおろかなり。


開闢カイビャクよりこのかた化俗ケゾクの人なし、国をすますときをきかず。


いはゆるは、いかなるか清、いかなるか濁としらざるによる。


二柄三才ニヘイサンサイの本末にくらきによりてかくのごとくなり。


いはんや五才の盛衰ジョウスイをしらんや。


この愚は、眼前の声色にくらきによりてなり。


くらきことは、経書をしらざるによりてなり、経書に師なきによりてなり。


その師なしといふは、この経書いく十巻といふことをしらず、

この経いく百偈、いく千言としらず、たゞ文モンの説相をのみよむ。


いく千偈、いく万言といふことをしらざるなり。


すでに古経をしり、古書をよむがごときは、すなはち慕古の意旨あるなり。


慕古のこゝろあれば古経きたり現前するなり。



〔『正法眼蔵』私訳〕                         

日本に住む我々の卑賤なことは、顧みれば驚き恐れるほどである。

(われらが卑賤おもひやれば、驚怖しつべし。)


中央の地を見たことがなく、中華に生まれず、聖人を知らず、

賢者を見ず、天上界に上った人もなく、人の心はまったく愚かである。

(中土をみず、中華にうまれず。聖をしらず、賢をみず、

天上にのぼれる人いまだなし、人心ひとへにおろかなり。)


日本の国始まって以来、俗人を教化した人がなく、

国を清らかにした時を聞いたことがない。

(開闢よりこのかた、化俗の人なし、国をすますときをきかず。)


それは、どのようなことが国が清らかになることで、

どのようなことが国が濁ることであるか知らないからである。

(いわゆるは、いかなるが清、いかなるが濁としらざるによる。)


天と地と人の道理の本末に暗いから、このようであるのだ。

(二柄三才の本末にくらきによりて、かくのごとくなり。)


言うまでもなく、

万物を構成する木火土金水モクカドゴンスイによる世の盛衰を知らない。

(いわんや、五才の盛衰をしらんや。)


この愚しさしさは、眼の前の五感の対象に迷わされているからである。

(この愚は、眼前の声色にくらきによりてなり。)


眼前の五感の対象に迷わされるのは、経典の真意を知らないからであり、

経典に明るい師がいないからである。

(くらきことは、経書をしらざるによりてなり、経書に師なきによりてなり。)


そのような師がいないというのは、この経典が幾十巻ということを知らず、

この経典が幾百の詩偈、幾千の言葉で成っているということを知らず、

ただ文章に説かれている文字面だけを読むからである。

(その師なしというは、この経書いく十巻ということをしらず、

この経いく百偈、いく千言としらず、ただ文の説相をのみよむ。)


そこに幾千の詩偈、幾万の言葉が説かれているかを知らないのである。

(いく千偈、いく万言ということをしらざるなり。)


既に古経(仏のお経)や古書(祖師の語録)を知り読む人は、

古イニシエを慕う気持ちがあるのである。

(すでに古経をしり古書をよむがごときは、すなわち、慕古の意旨あるなり。)


古を慕う心があれば、古経が自ずから現前するのである。

(慕古のこゝろあれば古経きたり現前するなり。)



            合掌


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