スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

10月, 2025の投稿を表示しています

ただ諸々のものが海印三昧を言い得ているのである『第十三海印三昧』13-4a

  〔『正法眼蔵』原文〕  いはゆる「海印三昧」の時節は、 すなはち「但以衆法 タンイシュホウ 」の時節なり、「但以衆法」の道得なり。 このときを「合成此身 ゴウジョウシシン 」といふ。 衆法合成せる一合相 イチゴウソウ 、すなはち此身なり。 此身を一合相とせるにあらず、「衆法」「合成」なり。 「合成」「此身」を此身と道得せるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕  ここで言う「海印三昧」 ( 三昧の海にあらゆるものが映る諸仏の境地:坐禅 ) の時とは、とりもなおさず「ただ諸々のもの」の時であり、 「ただ諸々のもの」が海印三昧を言い得ているのである。 (いはゆる「海印三昧」の時節は、すなはち「但以衆法」の時節なり、「但以衆法」の道得なり。)   この時を「集ってこの身が成っている」と言うのである。 (このときを「合成此身」といふ。) 諸々のことが集まって一つになっているすがた、 それが尽十方界であるこの身なのである。 (衆法合成せる一合相、すなはち此身なり。) この身を一つになっているすがたとしたのでなく、 「諸々のもの」が「集まって成っている」のである。 (此身を一合相とせるにあらず、「衆法」「合成」なり。) 「集まって成っている」「この身」を尽十方界であるこの身と言い得たのである。 (「合成」「此身」を此身と道得せるなり。) ただ諸々のものが海印三昧を言い得ているのである『第十三海印三昧』13-4b                                合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村  

ただ諸々のものが海印三昧を言い得ているのである『第十三海印三昧』13-4b

  〔『聞書』私訳〕 /「いはゆる海印三昧の時節」という段、 「合成此身」とは、「三界唯一心」の心と「此身」の身は同じであると心得るべきである。 /「一合相」とは、教学で一般に言うには五蘊等が一つに合したのを人身と指すが、これはそういうことではない。「但以衆法、合成此身」のことを「一合相」と言うのは、必ずしも身とのみ心得るべきではなく、「此身」は「衆法」の身である。 この壊身 (五蘊化和合の人身) を指して「一合相」と言うからといって、これを嫌って言わないわけではない。「此身」とは、尽十方界の真実人体と言う時は「此身」一つを取り出すのではなく、それは「衆法合成」の「此身」なのである。 /「一合相」は「此身」であり、「此身」を「一合相」とするのではないという意味合いは「此法起時、不言我起」と言うようなことであり、このように心得るべきである。或いはまた、三界は一心であり、一心は三界ではない、と言うようなことである。 〔『抄』私訳〕 仏の言葉の「但以衆法、合成此身」を一般に人が心得るのは、「衆法を以て、此身を合成す」とは、地水火風空等の諸々の法でこの身を合成すると心得るであろうが、そうではない。今「此身」と言われる「身」は尽十方界の全身である。 この、「合成此身」とは諸々の物を取り集めて作ったというものではなく、尽十方界の全身の上でこれに漏れたものは何一つなく、初めて強引に集めたものではない。この道理を「合成此身」と言うのである。今の「海印三昧」の言葉が、そのまま「但以衆法の道得」であると言われるのである。 また、「衆法合成せる一合相、すなはち此身なり。此身を一合相とせるにあらず、衆法合成なり」とは、ただ同じ事を繰り返したのである。これは「此身」の道理が欠けた所がなく、円満である道理を述べられたのである。 「合成此身を此身と道得せるなり」とは、上で「衆法合成此身」と言えばやはり物が集まったように思われるが、今は「合成此身」とあり、「此身」が「合成」であるということを知ったということである。「衆法」が「此身」である道理が明らかなのである。                           合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓   ...