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医学の知見も借りて「箇の不思量底を思量す」を考察『第十二坐禅箴』12-1〔『正法眼蔵』評釈〕

 医学に知見のある方から聞いた話ですが、

2歳位までの赤ん坊はこれ(自分の体)が自分だとは知らないそうです。

自我意識が芽生えていないのですね。


「ガランゴロン!」と音がすると、自分が聞いているという自覚はないけれども、「ガランゴロン!がある

(ママ)が近寄ってくると、見ている自覚はないけれども、◎(ママ)がある


こういうのはみな人間の思量ではない「不思量底」の体験です。

そして、2歳位までの様々な「不思量底」の体験によって、

人間の大脳機能の7〜8割が形成されていくそうです。


人間の思量が入らないから世界共通です。

自分の思量で見ていないから聞いていないから、実物とズレることがないのです。それがここで言う「箇の不思量底を思量す」或いは「非思量」と言われることです。


 大人になってもこの7〜8割の「不思量底」の体験が基盤となっており、大人も皆それを使って生活(生命活動)しています。


例えば、「今から手を打つから、自分の好きなように聞いてください」と言ってから、「パン!」と打っても、自分の好きなように聞かない内に「パン!」と音が終るだけです。


このように、手を「パン!」と打つと、「パン!」となるようになっています。もし、手を「パン!」と打って、「パン!」とならなければ、これは大変なことです。ありがたいことに、そうはなっていませんよね。


どうしようと思わなくても(不思量底)いきなり「パン!」と聞こえます。後で聞こえるのではなく、即聞こえます。誰からも聞き方を学ばないのに、生まれて以来ずっと「パン!」と聞こえます。こういうことを、皆、「不思量底でやっているのです。


 これがお釈迦様が、人類で初めて気づかれた人のありようの根本です。人の思量でどうこうできるありようではない生き方を人はしているのです。その内容に触れてみると、願ったり叶ったりの最高のありようです。


どうしようと思わなくても(不思量底)いきなり、物がある・音がある・香りがある・味がある・体感がある・思いがある、刻々と今その通りにあるのです。


どうしようと思わなくても(不思量底)、誰からも教えてもらわなくても、学ばなくても、努力しなくても、練習しなくても、見ようと思わなくても、明けの明星がその通りあるのです。


こんなに最高のありようを人はしているのです。そのありように親しく参ずるのが「箇の不思量底を思量す(今このようにある、思量しない今の様子のままに居る)或いは「非思量(思量ではない実物)なのです。



 最後に、道元禅師の『傘松道詠サンショウドウエイ』の句をあげておきます。

聞くままに また心なき身にしあれば おのれなりけり 軒の玉水」です。

軒先から雨だれが、「聞くままに」、「ポチャーン、ポチャーン、ポチャーン」と落ちている。


「心なき身にしあれば」、「おのれなりけり 軒の玉水」、


こういうところに、「箇の不思量底を思量する(今このようにある、思量しない今の様子のまま居る)人の「非思量(思量ではない実物:ポチャーンがあるのです。


「聞くままに また心なき身にしあれば おのれなりけり 軒の玉水」 道元

                           

                      合掌



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