〔『正法眼蔵』評釈〕 「 行仏さらに作仏にあらざるがゆゑに、公案見成なり 」 (行仏は決して作仏ではないのであるから、公然とした今の様子が現前するのである) とありましたが、私たちの日常生活に引き付けて言えば、一体どういうことになるでしょうか?みてみましょう。 例えば、手を打つと、 「パン!」 とある (公案現成) 。 聞こうとした(作仏を求めた)から「パン!」と聞こえるのではない (作仏にあらず) 。 手を打つと (行仏) 、即、公然とした音 「パン!」 が現前 (公案現成) するのだ。 目を開くと、 「目の前に物!」 がある (公案現成) 。 見ようとした(作仏を求めた)から見えるのではない (作仏にあらず) 。 目を開くと (行仏) と、即、公然とした「 目の前の物!」 が現前 (公案現成) するのだ。 合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村