〔『正法眼蔵』原文〕
うらむべし、数百軸スヒャクジクの釈主シャクシュ、数十年スジュウネンの講者コウジャ、
わづかに弊婆の一問をうるに、たちまちに負処に墮して、
祇対シタイにおよばざること。
正師をみると、正師に師承シジョウせると、正法をきけると、いまだ正法を
きかず正法をみざると、はるかにことなるによりて、かくのごとし。
徳山このときはじめていはく、
「画エにかけるもちひ、うゑをやむるにあたはず」と。
いまは龍潭リュウタンに嗣法シホウすと称ショウず。
〔『正法眼蔵』私訳〕
嘆かわしいことだ、数百巻の経典を、数十年も講釈してきた者が、
老婆から質問され、すぐ負けてしまい、答えることができなかったとは。
(うらむべし、数百軸の釈主、数十年の講者、わづかに弊婆の一問をうるに、
たちまちに負処に墮して、祇対におよばざること。)
正師にまみえ、正師の教えを受け、正法を聞いた者と、
まだ正法を聞いたこともなく正法を見たことがない者とでは、
はるかに異なるので、このようになるのである。
(正師をみると、正師に師承せると、正法をきけると、
いまだ正法をきかず正法をみざると、はるかにことなるによりて、かくのごとし。)
徳山はこの時はじめて言った、
「画に描いた餅は、飢えを止めることはできない」と。
(徳山このときはじめていはく、画にかけるもちひ、うゑをやむるにあたはずと。)
その後、龍潭の法を継いだと言われている。
(いまは龍潭に嗣法すと称ず。)
合掌
コメント
コメントを投稿