〔『正法眼蔵』原文〕
火焔は決定ケツジョウして三世諸仏のために説法す。
赤心片々として鉄樹花開世界香《鉄樹、花開いて世界香カンばし》なるなり。
且道シャドウすらくは、火焔の説法を立地聴しもてゆくに、
畢竟ヒッキョウじて現成箇什麼ゲンジョウコシモ。
いはゆるは智勝于ウ師《智、師に勝る》なるべし、
智等于師《智、師に等し》なるべし。
さらに師資の閫奥コンオウに参究して三世諸仏なるなり。
〔抄私訳〕
「火焔は決定して三世諸仏のために説法す。赤心片々として鉄樹花開世界香《鉄樹、花開いて世界香ばし》なるなり」とある。
これらの道理であるから、「火焔は決定して三世諸仏のために説法」するのである。「赤心片々」は例の言葉であり、火焔のまる出しで果てしない意である。「鉄樹花開世界香」も同じ意である。これらは古い言葉であり、ただどこまでも果てしない意味である。「香ばし」とは、「花開」の言葉に付くのである。
「且道すらくは、火焔の説法を立地聴しもてゆくに、畢竟じて現成箇什麼」とある。
これは、「火焔の説法を立地聴」すると、どのような道理が現成するか、という意である。
「いはゆるは、智勝于師なるべし、智等于師なるべし。さらに師資の閫奥コンオウに参究して三世諸仏なるなり」とある。
「智勝于師」「智等于師」の道理は、言うならば雪峰と玄砂の間柄と、「火焔」と「三世諸仏」の間柄が、どちらも違わないということである。
「勝」「等」の言葉は、ただ同じ意である。
「勝」「等」の「勝」は勝劣の勝ではなく、また「等」は相対の等ではない。この道理を参究するから「三世諸仏なるなり」と決着されるのである。
〔聞書私訳〕
/「鉄樹花開世界香」とは、鉄の樹が、どうしてか花が咲き、開き、よい香りがするだろうけれども、「三世諸仏のために説法」するのである。「赤心片々」と言うからには、「鉄樹の花が開き」よい香りがするのである。ことごとく日頃の考えとは違うが、この違う所が、「鉄樹花開」なのである。
/「智勝于師なり、智等于師なり」とは、「諸仏」と「火焔」が師弟に対応することを言うのであり、これらは等しいのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
火焔(たった今)は必ず三世諸仏のために説法するのである。
(火焔は決定して三世諸仏のために説法す。)
〔火焔ばかりではなくあらゆるものが法(たった今)を説き抜いている。〕
火焔(たった今)の丸出しで、鉄の樹に法華(たった今の華)の花が
爛漫と開いて世界に香るのである。
(赤心片片として鉄樹、花開いて世界香ばしなるなり。)
試みに言うならば、
火焔の説法を地に立って聴いていると、結局どうなるか。
(且道すらくは、火焔の説法を立地聴しもてゆくに、畢竟じて現成箇什麼。)
一般に言われているのは、
智が師よりも勝れていれば、智が師に等しいということである。
(いはゆるは智、師に勝るなるべし、智、師に等しなるべし。)
さらに師弟の奥深い所に参じ究めた者が、
三世諸仏(たった今にいる人)なのである。
(さらに師資の閫奥に参究して三世諸仏なるなり。)
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