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正3-7-3②『第三仏性』第七段その3②〔身の現れは仏性〈向かうと必ずきちっとその通りあること〉である〕

 

〔『正法眼蔵』本文〕


いま天上人間、大千法界ダイセンホッカイに流布ルフせる仏法を見聞ケンモンせる前後の皮袋ヒタイ、たれか道取ドウシュせる、「身現相は仏性なり」と。


大千界にはただ提婆ダイバ尊者のみ道取せるなり。


余者はただ仏性は眼見耳聞心識ゲンケンニモンシンシキ等にあらずとのみ道取するなり。


身現は仏性なりとしらざるゆえに道取せざるなり。


祖師のをしむにあらざれども、眼耳ふさがれて見聞することあたはざるなり。


身識いまだおこらずして、了別することあたはざるなり。


無相三昧の形如満月なるを望見し礼拝するに、「目未所覩モクミショト」なり。


「仏性之義、廓然虚明」なり。



〔抄私訳〕

・また、「天上・人間、大千法界に流布ルフせる仏法を見聞せる前後の皮袋、だれか道取せる、身現相は仏性なり」とある。これは、仏性〈向かうと必ずきちっとその通りあること〉は理として具わっている法〈真実のありよう〉であるから、決して身の現れを示して仏性を説く道理はない。ここでは、提婆だけが言ったことを繰り返し讃嘆されるのである。ほかの者たちが仏性を説く様子は文の通りである。


・また、「無相三昧の形如満月なるを望見し礼拝するに、目未所覩なり」と言う。先に述べたように、ただ龍樹の「無相三昧」の形が満月のようである道理が、「目未所覩」(目に未だ覩ざるところ)と言われるのである。「目所未見」の道理に違いはないのである。



〔『正法眼蔵』本文〕


今、天上界、人間界、大宇宙に広まっている仏法〈仏が自覚した真実のありよう〉を、見聞した古今の人間の中で、誰が「身に姿を現すのは仏性である」と言ったであろうか。(いま天上人間、大千法界ダイセンホッカイに流布ルフせる仏法を見聞ケンモンせる前後の皮袋ヒタイ、だれか道取ドウシュせる、「身現相は仏性なり」と。)


大宇宙ではただ提婆尊者だけが言ったのである。(大千界にはただ提婆ダイバ尊者のみ道取せるなり。)


ほかの者は、「ただ仏性は眼で見たり、耳で聞いたり、心で知るのではない」とだけ言っているのである。(余者はただ仏性は眼見耳聞心識ゲンケンニモンシンシキ等にあらずとのみ道取するなり。)


身の現れは仏性であると知らないから言うことができないのである。(身現は仏性なりとしらざるゆえに道取せざるなり。)


祖師が教えることを惜しむのではないが、聴衆の眼や耳がふさがっていて、見聞することができないのである。(祖師のおしむにあらざれども、眼耳ふさがれて見聞することあたはざるなり。)


身識(身体の感受作用)がまだ起こらないので、識ることができないのである。(身識いまだおこらずして、了別することあたはざるなり。)


だから、尊者が坐禅している無相三昧の形が満月のようであるのを望み見て礼拝しても、聴衆は「目にまだ見たことがない」というのである。(無相三昧の形如満月なるを望見し礼拝するに、「目未所覩モクミショト」なり。)


「仏性というものは、とらわれるものがなく、カラリと開けて明らか」なのである 。(「仏性之義は、廓然カクネンとして虚明コメイ」なり。)


注記:〈 〉内は訳者の独自注釈、〔 〕内は訳者の補足。


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