〔『正法眼蔵』本文〕
四祖いはく、「汝無仏性」。
いはゆる道取は、汝はたれにあらず、汝に一任すれども、無仏性なりと開演するなり。
しるべし、学すべし、いまはいかなる時節にして無仏性なるぞ。
仏頭にして無仏性なるか、仏向上にして無仏性なるか。
〔抄私訳〕
・「四祖いはく、『汝無仏性』」。この言葉は、大変驚かれ疑われるであろう。一切衆生にどうして仏性が無いのだろうと思われる。しかし、ありふれた煩悩に縛られている凡夫でさえ、仏性を具えていないはずがない。ましてや、四祖と五祖の間柄を改めて疑うべきもなく、七歳で道を得た童子(五祖)に仏性が有るとか無いとか言う必要もないことである。法相宗ホッソウシュウで、衆生の中に一分の無性(仏になれない性)の者があるなどと言うような意味とは異なるのである。
・この「無仏性」を釈されて、「いはゆる道取は、汝はたれにあらず、汝に一任すれども、無仏性なりと開演するなり」(言うところは、汝は特定の個人ではなく、あらゆる者が汝である。仮に五祖を汝と言うけれども、汝は全仏性だから「汝は無の仏性である」と説き示すのである)とある。「汝は誰にあらず」とは、汝と言えば、ただ五祖の童児のことだと思われる。
しかし、汝と言う時は、三世諸仏・六代祖師以下、皆漏れるものはない。だから、「誰にあらず」と道理を教えるのである。また、「汝に一任すれども、無仏性なりと開演するなり」とあるのは、仮に汝と言っても無仏性と説き示すのである。
・「いまはいかなる時節にして無仏性なるぞ。仏頭にして無仏性なるか、仏向上にして無仏性なるか」(今はどのような時節で無仏性と言うのか。仏頭(悟りを開いた時節)で無仏性と言うのか、仏向上(悟りを透過する時節)で無仏性と言うのか)とあるのは、時節も無仏性であり、仏頭も無仏性であり、仏向上も無仏性であるということである。即ち特定の個人ではない道理が、はっきりと理解されるのである。
〔聞書私訳〕
/「汝無仏性」は「是れ作仏」であり、「汝無仏性」は「汝何姓」と同じことである。「汝無仏性」とは、汝には仏性が無いとも理解されるであろう。そうであるが、「無仏性」を「汝」とするのである。
/「汝無仏性、いはゆる道取は、汝はたれにあらず、汝に一任すれども、無仏性なりと開演するなり」と言う。「無仏性」の「汝」とするから、「一任」すると使うのである。
/「いまはいかなる時節にして無仏性なるぞ。仏頭にして無仏性なるか、仏向上にして無仏性なるか」とあるかは、例えば、「汝わが皮肉骨髄を得たり」と言うような時、汝はわが皮を得たるか、汝はわが肉を得たるか、汝はわが骨を得たるか、汝はわが髄を得たるか、というほどのかである。〔疑問ではなく確認の意味である。〕
〔『正法眼蔵』私訳〕
四祖が言う、「汝は無仏性である」。(四祖いはく、「汝無仏性」。)
言うところは、汝は特定の個人ではなく、あらゆる者が汝である。仮に五祖を汝だと言うが、汝は全仏性だから「汝は無仏性である」、即ち「一切衆生は悉有仏性である」と説き示すのである。(いはゆる道取は、汝はたれにあらず、汝に一任すれども、無仏性なりと開演するなり。)
知るといい、学ぶといい、今はどのような時節で無仏性であるのか。(しるべし、学すべし、いまはいかなる時節にして無仏性なるぞ。)
仏頭(悟りを開いた時節)で無仏性と言うのか、仏向上(悟りを透過する時節)で無仏性と言うのか、どんな時節でも無仏性であるのだ。(仏頭にして無仏性なるか、仏向上にして無仏性なるか。)
合掌
ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。合掌
コメント
コメントを投稿