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正3-4-3①第四段その3①〔四祖が言われた「汝は無仏性だ」〕

〔『正法眼蔵』本文〕

四祖いはく、「汝無仏性」。

いはゆる道取は、汝はたれにあらず、汝に一任すれども、無仏性なりと開演するなり。

しるべし、学すべし、いまはいかなる時節にして無仏性なるぞ。

仏頭にして無仏性なるか、仏向上にして無仏性なるか。


〔抄私訳〕

・「四祖いはく、『汝無仏性』」。この言葉は、大変驚かれ疑われるであろう。一切衆生にどうして仏性が無いのだろうと思われる。しかし、ありふれた煩悩に縛られている凡夫でさえ、仏性を具えていないはずがない。ましてや、四祖と五祖の間柄を改めて疑うべきもなく、七歳で道を得た童子(五祖)に仏性が有るとか無いとか言う必要もないことである。法相宗ホッソウシュウで、衆生の中に一分の無性(仏になれない性)の者があるなどと言うような意味とは異なるのである。


・この「無仏性」を釈されて、「いはゆる道取は、汝はたれにあらず、汝に一任すれども、無仏性なりと開演するなり」(言うところは、汝は特定の個人ではなく、あらゆる者が汝である。仮に五祖を汝と言うけれども、汝は全仏性だから「汝は無の仏性である」と説き示すのである)とある。「汝は誰にあらず」とは、汝と言えば、ただ五祖の童児のことだと思われる。


しかし、汝と言う時は、三世諸仏・六代祖師以下、皆漏れるものはない。だから、「誰にあらず」と道理を教えるのである。また、「汝に一任すれども、無仏性なりと開演するなり」とあるのは、仮に汝と言っても無仏性と説き示すのである。


・「いまはいかなる時節にして無仏性なるぞ。仏頭にして無仏性なるか、仏向上にして無仏性なるか」今はどのような時節で無仏性と言うのか。仏頭(悟りを開いた時節)で無仏性と言うのか、仏向上(悟りを透過する時節)で無仏性と言うのかとあるのは、時節も無仏性であり、仏頭も無仏性であり、仏向上も無仏性であるということである。即ち特定の個人ではない道理が、はっきりと理解されるのである。


〔聞書私訳〕

/「汝無仏性」は「是れ作仏」であり、「汝無仏性」は「汝何姓」と同じことである。「汝無仏性」とは、汝には仏性が無いとも理解されるであろう。そうであるが、「無仏性」を「汝」とするのである。


/「汝無仏性、いはゆる道取は、汝はたれにあらず、汝に一任すれども、無仏性なりと開演するなり」と言う。「無仏性」の「汝」とするから、「一任」すると使うのである。


/「いまはいかなる時節にして無仏性なるぞ。仏頭にして無仏性なるか、仏向上にして無仏性なるか」とあるは、例えば、「汝わが皮肉骨髄を得たり」と言うような時、汝はわが皮を得たる、汝はわが肉を得たる、汝はわが骨を得たる、汝はわが髄を得たる、というほどのである。〔疑問ではなく確認の意味である。〕



〔『正法眼蔵』私訳〕

四祖が言う、「汝は無仏性である」。(四祖いはく、「汝無仏性」。)


言うところは、汝は特定の個人ではなく、あらゆる者が汝である。仮に五祖を汝だと言うが、汝は全仏性だから「汝は無仏性である」、即ち「一切衆生は悉有仏性である」と説き示すのである。(いはゆる道取は、汝はたれにあらず、汝に一任すれども、無仏性なりと開演するなり。)


知るといい、学ぶといい、今はどのような時節で無仏性であるのか。(しるべし、学すべし、いまはいかなる時節にして無仏性なるぞ。)


仏頭(悟りを開いた時節)で無仏性と言うのか、仏向上(悟りを透過する時節)で無仏性と言うのか、どんな時節でも無仏性であるのだ。(仏頭にして無仏性なるか、仏向上にして無仏性なるか。)


   

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