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正3-2-1②『仏性』第二段その1②〔ただ仏性を知ろうと思うだけではない〕

 〔『正法眼蔵』本文〕

いま「仏性義をしらんとおもはゞ」といふは、

たゞ知のみにあらず、

行ぜんとおもはゞ、

証せんとおもはゞ、

とかんむとおもはゞとも、

わすれんとおもはゞともいふなり。



〔抄私訳〕

・「知」もまた慮知(思慮分別)の知や、念慮(頭の中で考えめぐらすこと)慮知念覚(思惟・判断等の心作用)の知ではない。だから「行ぜんとおもはば、証せんとおもはば、とかんむとおもはばとも、わすれんとおもはばともいふなり」と、「知」の道理の響くところをこのように言われるのである。


〔聞書私訳〕

/「忘れむとおもはば」という「忘」は、その物を置いて、忘れる・忘れないということではない。「知」の時、既に誰かがいて知ることができる、というからには、この「忘」も、どんなことをどんな人が忘れるのかということではないのである。


/この「欲知」(知ろうと思う)は、「悉有」を、仏性だ衆生だと言うように、「欲知」は「悉知は仏性なり」である。時刻の至らないときがないように、仏性は至〈至っている〉である。時刻は至るものか、至らないものか、どちらとも決め難い。全く隔りがないので、至るとも言い、また至らないとも使うのである。「時節若至」という「若」は、至ることもあり、至らないこともあるのを、「若し至るだろうとき」と言うのではない。「若至」(若し至れば)とも、「若不至」(若し至らなければ)とも言うことができるだろうところを、「若至」、「若不至」の二通りの時を言おうとして、しばらく「若至」と言うのである。決して今後「至」るのを待つという意味ではないのである。会エ(了解するも道得〈仏法の道理を説き尽くしている〉・不会フエ(了解しない)も道得である意味なのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

今、「仏性の義を知ろうと思うなら」というのは、(いま「仏性義をしらんとおもはゞ」といふは、)           

ただ仏性を知ろうと思うだけではない、(ただ知のみにあらず、)

仏性を行じようと思えば、(行ぜんとおもはば、)

仏性を証しようと思えば、(証せんとおもはば、)

仏性を説こうと思えばとも、(とかんむとおもはばとも、)

仏性を忘れようと思うえばとも言うのである。(わすれんとおもはばともいふなり。)


                            合掌


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