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正2-1-2 第一段その2〔あらゆる日常の行為は不生不滅の境界に渡す偉大な仏智の働きだ〕

〔『正法眼蔵』本文〕

般若波羅蜜十二枚、これ十二入なり。

また十八枚の般若あり、眼耳鼻舌身意ゲンニビゼッシンイ、色声香味触法シキショウコウミソクホウ、および眼耳鼻舌身意識等なり。                

また四枚の般若あり、苦集滅道クジュウメツドウなり。           

また六枚の般若あり、布施・浄戒・安忍・精進・静慮ジョウリョ・般若なり。

また一枚の般若波羅蜜、而今ニコン現成ゲンジョウせり、阿耨多羅三藐三菩提アノクタラサンミャクサンボダイななり。 

また般若波羅蜜三枚あり、過去・現在・未来なり。         

また般若六枚あり、地・水・火・風・空クウ・識なり。        

また四枚の般若、よのつねにおこなはる、行ギョウ・住・坐・臥ガなり。



〔抄私訳〕

「十二枚」「十二入」「十八枚」等の「般若波羅蜜」などと挙げられる、「般若波羅蜜」の道理の方から見る時は、いかにもその趣旨がある。第一『現成公案』の巻で、「諸法の仏法なる時節」〈森羅万象が仏法である時節〉に、迷悟以下衆生までの七種を挙げられた。七種に限るべきではなく、あらゆるものを挙げるべきであるが、挙げるべきことが多いために、これを略されたのである。同じように、これも般若波羅蜜の下にすべてのものを挙げるべきであるが、すべてを尽くすことはできないので、まず一部分を載せられたと理解すべきである。


〔聞書私訳〕

/六根(六つの感覚器官)は浮塵根フジンコンとも言うのである。六根は、露わに浮かんで見えるからである。しかし、意根は、浮塵の意味がはっきりしない。或いは内根と言うべきか。胸中に有るなどと言う時もあるが、胸の内外中間に関わらないと言う時は、内根とも言い難い。


また、前念と後念を立て、そのうちの一つを根と取るべきか。例えば、念が相続することを言うのに、煙が先に上がると、さらに次々と連なって途中で絶えることがないことを煙に喩える。念の様子は、このように何れも心意識(対象をとらえる思慮分別する心)・念想観(思慮分別をめぐらして一つの観念をすること)であるが、一心一切法一切法一心の心として用いることはできない。念は般若の道理に及ぶことができない、「百草万象は般若だ」と説くのであるから。    

      

            

〔『正法眼蔵』私訳〕

更に、十二の般若波羅蜜〈仏智慧のはたらき〉があり、それは六つの感覚器官(眼耳鼻舌身意の六根)と六つの環境(色声香味触法の六境)を合わせた十二入ジュウニニュウ である。(般若波羅蜜十二枚、これ十二入なり。)             


また、十二入に六つの認識作用(六識)を加えて、十八(六根、六境、六識)の般若波羅蜜があり、眼耳鼻舌身意の六つの感覚器官(六根)と、色声香味触法の六つの環境(六境)と、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六つの認識作用(六識)等である。(また十八枚の般若あり、眼耳鼻舌身意ゲンニビゼッシンイ、色声香味触法シキショウコウミソクホウ、および眼耳鼻舌身意識等なり。)      


また、四つの般若波羅蜜があり、苦集滅道クシュウメツドウ(四諦シタイ:原因が集まり苦が生じ、道を行ずれば苦が滅する)である。(また四枚の般若あり、苦集滅道クジュウメツドウなり。)                  


また、菩薩のはたらきとして六つの般若波羅蜜があり、布施・浄戒(戒を保つ)・安忍アンニン(忍耐)・精進ショウジン・静慮ジョウリョ(禅定・般若(仏智慧) である。(また六枚の般若あり、布施・浄戒・安忍・精進・静慮・般若なり。)  


また、一つの般若波羅蜜があり、今この瞬間に現れている無上正等正覚ムジョウショウトウショウガク(この上なく勝れた覚り)である。(また一枚の般若波羅蜜、而今ニコン現成ゲンジョウせり、阿耨多羅三藐三菩提アノクタラサンミャクサンボダイななり。)   


また、般若波羅蜜が三つあり、過去・現在・未来である。(また般若波羅蜜三枚あり、過去・現在・未来なり。)                        


また、万物を構成する般若波羅蜜が六つあり、地(固体)(液体)(化学反応)(物理反応)(有に非ず無に非ず)(認識作用)である。(また般若六枚あり、地・水・火・風・空クウ・識なり。)     


また四つの般若波羅蜜〈不生不滅の境界に渡す仏智慧の働き〉があり、歩く留まる坐る寝るなどのあらゆる日常の行為である。(また四枚の般若、よのつねにおこなはる、行ギョウ・住・坐・臥ガなり。)



〔『正法眼蔵』評釈〕                         

今、顔を上げると、何か見えませんか。見ようと思わなくても、見えませんか。横を向く。どうしようとしなくても、さっきまでの映像が完全に消え、新たな映像がありませんか。と、今、音がする。聞こうとしなくても、聞こえませんか。風が吹いてくる。どうしようとしなくても、風が感じられませんか。暑いので冷蔵庫から麦茶を出して飲む。どうしようとしなくても、冷たい心地よさが身心全体に広がりませんか。「おいしい」と思う。思おうとしなくても、思いは浮かんできませんか。逆に思うまいとしても、思いは浮かんできませんか。見るまいとしても、見えませんか。聞くまいとしても、聞こえませんか。味合うまいとしても、味がしませんか。     


これは、般若波羅蜜である眼耳鼻舌身意の六根が、般若波羅蜜である色声香味触法の六境と一体となって、般若波羅蜜〈不生不滅の境界に渡す仏智慧のはたらき〉であるこの身心が、今このように現前していることの言語表現です。縁に触れて、壁になり、畳になり、鳥の声になり、線香の香りになり、風になり、お茶になり、思いになり、喜びになり、他者になり、青空になり、夜空になり、月になり、星になり、カーテンになり・・・と次から次へと変化していくのです。すべては般若波羅蜜の現れです。般若波羅蜜であるこの身心と般若波羅蜜である全宇宙が一体となって今ここに現れる一瞬一瞬です。永遠の絶対の今なのです。〈また十八枚の般若あり、眼耳鼻舌身意ゲンニビゼッシンイ、色声香味触法シキショウコウミソクホウ、および眼耳鼻舌身意識等なり。〉


しかし、苦しみとなることもあります。取り除こうとしてもできません、逃げようとしてもできません。般若波羅蜜〈不生不滅の境界に渡す仏智慧のはたらき〉が般若波羅蜜に苦しみ、般若波羅蜜である苦しみを取り除こうとしてもできないのです。苦しみのまま〈また四枚の般若あり、苦集滅道クジュウメツドウなり〉、六波羅蜜を行じ〈また六枚の般若あり、布施・浄戒・安忍・精進・静慮・般若なり〉、歩き留まり坐り臥す〈また四枚の般若、よのつねにおこなはる、行ギョウ・住・坐・臥ガなり〉しかありません〈只管シカン〉。その苦しみの真っ只中にこそ、認識されない阿耨多羅三藐三菩提阿耨多羅三藐三菩提アノクタラサンミャクサンボダイ(無上正等正覚)が現成しているのだよ〈また一枚の般若波羅蜜、而今ニコン現成ゲンジョウせり、阿耨多羅三藐三菩提アノクタラサンミャクサンボダイななり〉と、道元禅師様はお示しくださっています。ありがとうございます。


*注:《 》内は御抄著者の補足。〔 〕内は著者の補足。( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。

                                 合掌
                               

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〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

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