〔『正法眼蔵』私訳〕
あらゆるものにも私にも不変の実体がない時節、
(万法ともにわれにあらざる時節、)
迷いも悟りもなく、諸仏も衆生もなく、生も滅もなく、あらゆるものはない。
(まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。)
〔『正法眼蔵』評釈〕
「あらゆるものにも私にも不変の実体がない時節」と、何を突拍子もないことを言い出すのかと思われるかも知れませんね。そこで、それについて少し説明してみましょう。
ご承知のように、人間には一般的に五感プラス意識が具わっています。見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触るの五感と、思うという意識です。人間以外の哺乳類にも五感が備わっていますが、意識機能は人間ほどには具わっていないようです。この意識機能のお陰で人間は、食物連鎖の圧倒的頂点に立ち、高度な人間文明を享受することができているのです。
一方、人間はこの意識機能によって「我れ有り」と思い、この「私」が幸不幸を感じ、幸を求め不幸を厭い、期待通りにいかないと怒ったり悲しんだり苦悩したりし、様々な人生劇場が展開していると考えています。17世紀、フランスの哲学者デカルトが、思索の果てに「我れ思う、ゆえに我れ有り」と宣言し、近代「自我」が誕生しました。しかし、人間脳科学によれば、我れ・私・自我・自分・自己などというものは、大脳のどこにも物理的には存在しておらず、大脳内に無数に生じる思いの中の一つの思いにしか過ぎず、大脳内のエピソード記憶を寄せ集め紡ぎ出している「私物語」の「クオリア」であるが、「私の不変の実体」と呼べるものは見当たらないそうです。人間生物学によれば、約80兆個の身体細胞の内、数百万個の細胞が毎秒新陳代謝しており、2週間もすれば全身の細胞が入れ替わっているそうです。
しかし、人間は「私」の実在を確信しています。「私という思い」の満足を求めて、競い合いや争いを休みなく繰り広げています。「私という思い」が暴走すると、極端な場合、私が所有していると思っている身心のトータル消去(自死)を企てたりすることがあります。或いは、「私という思い」の満足を求めるあまり、人間種以外の生命を膨大に奪い続け絶滅危惧種が極端に増え続けています。更には、自国の安全保障を名目に原子爆弾を含む大量人間殺戮兵器を使用して、他国の人間を大量抹殺しても致し方ないとする独裁者が現れ、人類文明社会壊滅の危機が迫っていると警鐘を鳴らす人もいます。
ここで思考実験です。例えば、犬が何かにぶつかられて、大変痛かったとしましょう。犬は、五感機能で「痛い!キャン!」と反応します。しかし、犬は意識機能が人間ほどには発達しておらず、長期記憶もほとんどないようなので、「痛い!キャン!」これで終わりのようです。ついでに言えば、犬は餌をくれる人間を覚えていて、その人間が「ジョン」とか発声すると餌をくれるんだと思い、尻尾をふったりするくらいのことはできますが。
一方、人間は犬のようにそう簡単にはおさまりません。「痛い!この野郎いきなり跳び出してきやがって謝りもしない、けしからん、殴ってやろうか」などと思いが次々と浮かんできます。私が一番大事だという思いでおおわれている個人間、集団間、国家間でいざこざが絶えませんよね。
ところで、日常生活をしている時の「私という思い」(自我意識)はどうなっているでしょうか。「私が〇〇をする」というふうに私の大脳からの指令であらゆる私の活動がなされているに決まっているじゃないか、と言われるかもしれませんね。でも、本当にそうでしょうか。例えば、呼吸ですね。私が呼吸していると意識することは、特別な状況下ではあるでしょうが、大半の時間はほとんど何の意識もなく呼吸しているのではないでしょうか。意識なんかするとかえって呼吸困難になりかねませんよね。食べる時、意識しなくても食べ物はちゃんと口に運ばれます、目には運ばれませんよね。思おうと意識しなくても自然に思いが浮かんで来るのではないでしょうか。そこには、「私という思い」は介在していないのではないでしょうか。
ふと、〇〇がある。見ようと思わなくても見える。聞こうと思わなくても聞こえる。味わおうと思わなくても味がする。同じように、香る、触覚がある、思いが浮かぶ、歩く、坐る、立つ、などなど・・・様々な活動は、「私」が〇〇するという意識なし〈不思量底〉に半自動的になされているのではないでしょうか。 このような時、この身心は解脱し安らぎの中にあり、もとから身心脱落・脱落身心しているのです、意識はされませんが。これが、「万法マンボウともにわれにあらざる時節」〈あらゆるものにも私にも不変の実体がない時節〉ではないでしょうか。
仏法をわかり易く解説いただきありがとうございます
返信削除コメントいただきありがとうございます。励みとさせていただきます。合掌
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